10月6日。金木犀はきっと今日が満開。
数ヶ月ほど前、あるYouTubeが「この世はコインの裏表のように表裏一体だから、どちらか一方だけというわけにはいかないのだ」と、言っていました。
ものすごく当たり前でそんなこと分かってるよと思った私ですが、
同時に、何十年もイヤな方だけを手放したいとがんばっていたことに、ハッと気がつきました。
それは「不安な気持ち」。
でも、たしかにちょっと考えてみたら、安心があるから不安があって、不安があるから安心も感じられるんですよね。
どちらか一方、安心だけほしいなんてホント、無理な話じゃないか。と急に目が覚めました。
なーんだ、手放せないのか。
と諦めたらもう安心でも不安でもどっちでもいいやという感じになってきて、そのうち「安心」にあまり価値を置かなくなってきました。
すると不思議なもので、安心を求めなければ不安の輪郭もぼんやりしてくるのです。
まるで光と影のよう。光が弱いと影も薄い。
関心が薄いと、そのことのために行動しなくなります。
なんか、手放すのをやめたらいつのまにか手放せていた。…って感じになっていました。
好き嫌いとか、善悪とか、勝ち負けとか、正しさとかと一緒で、不安と安心も裏表だったんだな…と、自分のこだわりにはなかなか気がつけないものです。
安心や安全は誰もが求めるものです。
でも、「今のこの瞬間」はいつでも安心で安全じゃないかと最近ヨガで教えてもらったばかりでもあり、腑に落ちました。
安心、安全の見つけ方は他にあることを。
頭で知っていても、実感がないことはたくさんあります。
知ってる、やったことある、行ったことある、食べたことある…と数をこなしても、なかなか実感を得るところまではいきません。
自分の内側への旅は、10年も20年も前に知ったことを、長い時間をかけて実感するにふさわしい内面の成長を遂げたとき初めて「ああ!」と肚落ちするものなんだなあ、と嬉しく思いました。





私たちの「安心、安全」の見つけ方は、いつかうまく説明できるようになったら書こうと思います。

