父が亡くなり今日でひと月です。
スタジオのオープンを目前にした予想外の出来事でした。
私自身の独立に、”親との別れ”という大きなイベントが重なり、これは一体どうなることかと緊張もしましたが、みなさんに支えていただいたおかげで無事はじめの一歩を踏み出すことができました。
秋はそれでなくてもさみしさを感じる季節でもあり、夕方の時間や、不意に涼しい風が吹いてきたとき心許なさがよぎります。
父のことを思うと寂しくなりますが、同時に心があったかくもなるので、たくさん思い出すようにしています。
悲しいことは早く忘れてしまいたい、と思う一方で、悲しい、寂しい、という気持ちを抱えながらも幸せでいることは可能なのではないか、とこの頃思います。
寂しいけれど思う相手がいるのは、それまで与えられていたから。(…と、宇多田ヒカルがコンサートで言っていたらしい。)私もそう思えるようになって、「少しは大人になったかもしれない」と自己満足に浸っています。
とはいえ、親との別れはいくつであっても辛く、このさびしさは何年経っても薄れないのではないか、そんなことも感じます。
「また話したいのになぁ…」と毎日思います。天気のことや季節のお花が咲いたこと、雲や月がキレイだよ、トンネルのところは気温が何度だった…と他愛のないことを今までのようにちょっとだけ話せたらそれでいいのに、とどうしても思ってしまいます。
ヨガやインドの哲学に触れる機会も多かったこの十数年ですが、実習がなければ言葉は鋭くなるばかりのように感じていたところもありました。
勉強は実習によって学びや理解につながり、生活に生かされていくのだと思います。
だから、身近な人の死に立ち会うことが今後の私や私の周りの人たちとより心豊かに生きる糧にできると思えば少しは救われます。
この世に生きる以上、たくさんの人の想いに触れ寄り添いつつも、翻弄されない強さがほしいです。
ただ正論を吐くだけでなく、人の弱さも見守れる優しさもほしい。
高いハードルですが、起こることをただ受け止め続けることで少しずつ超えていけるかもしれません。
歳を重ねるということは、経験によって人間性の厚みや深さを身につけるチャンスが多くもらえるということです。
同じ経験でも何度も繰り返すと、ある日それまで気がつかなかったことに気付いたりします。
それをまた「ヨガとおんなじだ…」と思いつつ。

足元のタイルを「かわいい」と生徒さんたちがいってくれます。これは今回のリフォームとは関係なく、この家が建つときにつくられたので正真正銘の昭和レトロです。雨の日は滑るのでご注意。私も気に入っています。(草も生えないし)
これからここで私はお茶を飲もうと思うのです。
